蒼昊之征人
〜A Traveler of the Blue Sky〜

序 其の弐

「冗談じゃないよぉ……」

鴎の声が聞こえる。

青空の下、大きく吐き出したため息と共に、ぼやきが広がる。

「捕まえて来いって気楽に言ってくれるけどさぁ……そんな凶悪なのが、僕たちの手に負えるわけがないじゃないかぁ……」

「とりあえず、鈴木君。見つけたらすぐ、皆に知らせて後ろに下がればいいんだよ。ねっ。」

慰めるような声で、山田が彼の背後から声をかけてきた。

鈴木一郎は細い目に情けない表情をにじませながら、山田を振り向く。

「でも、逃げ出したって思われちゃったら、左門さまに減俸されちゃうよねぇ……。」

山田が一瞬、声を飲み込む。

「その可能性は高いね……。」

「せっかく一年休まずに奉公したんだし、さぁ……そういう事態は避けたいんだけど、でも怪我はしたくないしなぁ……。」

「鈴木君は真面目だもんね。左門さまもその辺は認めてくださってるし。」

山田は言いつつ、鈴木の腰から覗いている白い手ぬぐいに目を落とす。

彼が見ているものは、その白い手ぬぐいに書かれている、鈴木という文字だ。

伍苦門で一年無休で働いた者にのみ支給される、”ご苦労さま”の言葉と名入りのものだった。




門番の役目を交代してすぐに、鈴木と山田は新たな異変の勃発を知った。

「はよ、捕まえてきんしゃいっ! ふん縛って牢屋入りやっ!」

彼らの上役である伍苦門の責任者、左門はひび割れた眼鏡をつけたまま殴られて青あざが残る頬を手拭いで抑え、彼らを怒鳴りつけた。

伍苦門のお白州から”逃げ出した”狼藉者を探し出して捕らえるべく、鈴木の同僚である伍苦門の防人方たちが

駆け出していく。

彼らが門番の務めを果たしている時にすれ違った青年が、左門と取り押さえようとした防人方数人に狼藉を働き逃げ出したのだ、という。

鈴木と山田は控えの間で休息を取る暇もなく、狼藉者の捕縛のために走らなければならなくなった。

(少しは休ませてくれたっていいじゃないか……)

誰にともなく、鈴木は心に呟く。

しかし、ぼやいた所でどうにもならない。

(どうか狼藉者とばったり鉢合わせしませんように……)

余計な騒動もさることながら、それ以上に怪我はごめんだ、それが鈴木の正直な心情だった。



鈴木と山田は周囲に目を配りながら歩く。

狼藉者は逃亡したかもしれないが、伍苦門の施設である木造家屋の合間に潜んでいるかもしれない。

二人は交互にそういった隙間となる場所を覗いていった。

(あ、ヤバイ。なんか緊張してきたよ……)

しかし、天然の声には逆らえぬと鈴木は山田を振り向く。

「山田君、ゴメン。僕ちょっとはばかりに、ね。」

片手を立て、拝むように肩をすくめた鈴木を山田は眉を寄せて見た。

「しょうがないなぁ。じゃあ僕は先に行って、渡辺君たちと合流するからね。」

「えっ、待っててくれないの?」

「甘えてちゃいけないよ。もし狼藉者と鉢合わせしちゃったら、その時は君の判断でどうにかしなきゃ。」

「そんなぁ」

情けない声を出した鈴木に背を向け、

山田は歩み去っていく。

取り残された鈴木の耳に届く、のどかな鴎の鳴き声。

「はぁ……仕方ないか……。さっさと済ませよう。」




その帰り道。

小走りに先を急ぐ鈴木は、ふっと気配を感じる。

そこは港と海を見下ろせる一角だった。

群れ飛ぶ鴎の姿が見える。

その下に、一人の男がこちらに背を向け立っていた。

見たこともない男だった。

彼は洋装だったのである。

(えっ!? ひょっとして密入国者!?)

仰天した鈴木は、足音を思い切り忍ばせて家屋に隠れ、こっそりと覗き込む。

(それにしても、まっ黄色の洋装って……)

内心呆れながら、鈴木は男を観察する。

彼はすぐ脇に刀らしき長物を立てかけていた。

それは複数存在していた。

(いち、に、さん、し……)

鈴木は、洋装の男の脇に立てかけられている長物を目で追いつつ、口の中で数える。

(ご、ろく……刀が六本……槍が一本……ヘンなものに入れてるんだな……って……刀、あれ? うわでかいっ!

ていうか、一体なんだってあんなに沢山持ってるんだ!?)

「ん?」

男が振り向いた。

明らかに目が合った。

(うわ! 見つかっちゃったよ!)

一瞬、逃げようかという思いが頭をもたげたが、

鈴木を押し留めたのは”減給”という言葉だった。

僕がここで働いているから、国の家族が暮らしていけるんだ。

だから逃げ出すわけにはいかないんだよ。面倒も怪我もすごく嫌なんだけど。

鈴木は踏み出し、足を踏ん張り、手にした直槍の穂先を男に向けて突き出した。

「う、動かないでっ!」

力強く怒鳴ったつもりが、思わず語尾に弱気が混じる。

洋装の男は、振り向き鈴木を正面から見る。

鼻筋の通った色男だった。

そのくせ、その洋装に包まれた体がかなり逞しい事に鈴木は気づいたが、

(うわ、まずいよ……抵抗されたらほんとに怪我するかも……)

それは考えない事にした。

男は長髪の持ち主だった。年齢がよく見て取れない。

老け込んではいないものの、明らかに若くもないようだ。しかし見れば見るほど鼻筋の通った、整った顔立ちだった。

今も十分そうと言えるが、若い頃はかなりの色男であったろう。




「よう。」

男は鈴木に向かって笑みを浮かべ、片手を挙げた。

「こっ、ここは幕府直轄の伍苦門です! 無駄な抵抗は禁じますよ! 大人しくお縄につきなさいっ!」

「へえ。するとあんたはここでお勤め中ってわけかい? ご苦労さん。」

笑みは消えることなく、男は悠々と鈴木を見ている。

(な……なんなの? この人。)

あっけに取られて見返した鈴木は、男がもう片方の手に盃を持っている事にようやく気づく。

洋装とはどうにも不釣合いな持ち物だが、妙にこの男には似合っていた。

よくはわからないが、どうやら酒ではないらしい変わった色の液体が注がれていることを鈴木は見て取った。

(気を抜かない方がいいかも。油断させといて、いきなりズバーッと攻撃してくるつもりかもしれないし。)

「む……無駄話をするつもりはありませんっ! あなたは不審者なので、これから牢人街奉行の左門様がじかに尋問されることになりますよっ!」

そう精一杯威嚇して言葉を続ける鈴木の目の前で、男は手にした杯をあおった。

「そうかい。しかし、今日はいい陽気だねぇ。お勤めはもちろん大事だろうが、ちったぁこの風情を楽しんでみちゃどうだい?」

「は?」

男は明るい瞳で鈴木を見やった。

「アンタがあやしいと思うのはまあ当然だが、俺は単なる旅行者なんでね。

ここは景色がいいし、ちょいと珈琲で一杯、としゃれ込んでたのさ。」

「こぉひぃ?」

鴎の鳴き声が聞こえる。

唖然とした表情のままの鈴木に、男は手にした杯を差し出す。

「アンタも一杯どうだい?」

「いや今は勤務中ですから……って、そんな手は食いませんよっ!

大方痺れ薬とか、下手したら毒とか入ってるんでしょっ! さもなきゃ手を出した途端にバサ―ッとやるつもりとか!」

「ハハハハ……」

その屈託のない楽しげな笑い声に、鈴木は声を飲み込む。

「アンタ、面白い人だねぇ」

男の親しげな言葉に一瞬、鈴木の思考は停止する。

次の瞬間鈴木の脳裏に真っ先に浮かんだ思いは、

(あんたに言われたかありませんよ……)

というものだったが、それを男に告げる気力は完全に失せていた。

「じゃ、俺はそろそろ行くんでね」

あまりに気安くあっさりとした男の物言いに、

「へ?」

気を取り直したものの、鈴木の口からは今日何度目かの、我ながら間の抜けた声が漏れた。

盃を洋風の鞄に仕舞い、巨大な太刀を肩に負った男は、

「お勤め頑張りな」

そう言うと鈴木の脇を通り、悠々と歩み去ろうとする。

「ち、ちょっと! 逃げられないですよ! 同僚がそこら中を探し回ってますし……

ていうかあんた、左門様を殴って逃げた狼藉者じゃないんですかっ!?」

「ん?」

男が立ち止まり、鈴木を振り向き不思議そうな表情を見せる。

「俺ぁここに来てからまだそういうお楽しみはやってないなぁ。

多分他の奴なんで、その件でお白州ってのは勘弁してくれよ?」

にっと笑みを浮かべ、そのまま男は歩み去って行った。

目の前に何者があろうとも気に留めなかろうと思わせる様子で、悠々と。




男の姿が完全に見えなくなっても、鈴木は直槍を手にしたままで呆然と立ち尽くしていたが、

ふと我に返った。

(しまったぁ……曲者をそのまんま見逃しちゃったよ……左門様に知られたら減給だよ……)

鴎の鳴き声と波の音が聞こえる。

(黙ってればわかんないかな? でも山田君や渡辺君たちが、さっきの男を捕まえちゃったら言い抜けできないかも……ううん……)

目を上げた鈴木の目の端に、見慣れない何者かの影が過ぎった。

それは小柄で、ちらりと白い色の衣装が目に映った。

明らかに、伍苦門にいる者の服装ではない。

「いいぃっ!? なんだって今日は、こんなにわらわらと不審者が出るんだよ〜!」

思わず素っ頓狂な声を漏らし、鈴木は反射的にその影目掛けて突進していた。

「こらっそこの人! 待ちなさ〜い!!」

影の逃げ込んだ路地に駆け込んだ鈴木は、奥に置かれている樽からぴんと覗いている頭髪を目に留める。

(……わかりやすすぎるんだけど。)

鈴木は直槍の柄の先で、樽をコツコツと軽く叩いた。

「あのぅ〜、出てきてもらえません? ……うひゃっ!?」

突如影が伸び上がり、鈴木の目の前には一人の少年が銃を構えて立っていた。

「うわあぁぁ!?」

恐慌状態に陥り槍を突き出すため手に力を込めた鈴木だったが、

少年はにっこり笑うと銃を下ろす。

「ミスター、悪い人じゃないネ! 安心して、俺いい人には何もしないよ。それもジャスティスだから!」

「……はひ?」

力が抜け、どっと汗が噴出したが、目の前の少年はそんな鈴木の気持ちなど知らぬ気に、銃を下ろすとはちきれんばかりの笑顔を向けてきた。

鈴木は細い目を何度か瞬く。

少年の髪は薄い金色。くりくりとしたその目は黒く、肌は白く、子供ながらも鼻筋が高かった。

額に、白に複雑な蒼の紋様の入った鉢巻をしている。

筒のような短い袖を持った白い上着と、身にぴったりとついた青く短い袴のようなものを身につけている。

洋装であることは間違いなさそうだった。

少年の腰には布地とは違った材質らしい細い帯が巻かれ、そこに妙な形の筒……鈴木は知らないが、ホルスターという名で呼ばれている……

が取り付けられていた。

「君……異人の子、かな?」

先ほど銃で脅されたものの、それを大人しく少年は仕舞い込んでいる。今のところ危害を加える気はないらしいと判断し、

鈴木は直槍を肩に持たせかけた。

しっかりと握り締めながら。

「ひ……ひょっとして、是衒街の辺りから迷い込んできたの?」

何とか気持ちは落ち着いてきたが、まだ上ずった声が出る。

是衒街は、この島……牢人街のかなりの面積を占めている色町だ。

本土に居られなくなった流れ者たちが居着き、刃傷沙汰の絶えない無法地帯となっている。

それどころか、明らかに本州とは違った容姿、ありえない色の髪や目を持った者も紛れ込んでいるという。

無宿人のための更生施設として建設された筈の浪人街はいまや、混沌の坩堝と化していた。

牢人街が本来の姿を大きく外れ、事実上幕府の管轄を離れた無法の場所と化しても、

江戸の幕府が明確に対策を講じている様子は見られない。

唯一幕府の管轄と言える残された陣地、というべき伍苦門の”幕府方牢人街詰防人役”に属する鈴木たち侍は、

牢人街を……今や、『天に見放された町』を意味する”離天京”という名の方が通りがよくなっている……

ただ遠巻きに監視、というよりもむしろ手をこまねいて眺めるためにのみ派遣されているようなものだった。

とはいえ、基本的に是衒街の者たちと伍苦門の間には暗黙の了解のようなものが成立しており、

彼らが伍苦門に立ち入ることも干渉することもない。今の所は。

そんな事情をまるで知らぬであろう目の前の少年は、大きく首を振った。

「NO! 違うね! 俺はアメリカから来たんだ!」

「……は?」

(あめりか……あめりか……亜墨利加……って、異国のこと?)

「俺、ギルフォード。ギルフォード=H=ウェラーね!

父さんは保安官をやってる。昔、このジャパンに来たことあるんだ!」

「……はぁ。」

わけがわからぬままに、鈴木はギルフォードと名乗った少年の話に生返事を返したが。

「で、お父さんは今一緒じゃないの?」

「イェース! 父さんと母さんには心配しないでって手紙書いてきたから、ALL RIGHT!

俺、オバサンを探し出して母さんを安心させてやらなくちゃいけないからさ!」

少年は再び笑う。

「おばさん、ねぇ?」

「イエス、イェース! 母さんはこのジャパンの出身で、妹と別れて父さんのところにお嫁に来たんだ。だから、その妹は俺のオバサン!

ね、おじさんはオサムライだよね? 俺のオバサンがどこにいるか知らない?」

「……いきなり言われても。」

「オバサンはリムルルっていうんだ。スピリチュアルと交信するチカラを持ってる、シャーマンレディさ!」

「……それ、ホントに日本人の名前? すぴなんとかとか、しゃあまんとかって、一体何なの?」

「WHAT! 知らないの!?」

ギルフォードの大声に、鈴木は思わず首を縮める。

なんだか無駄なまでに元気がいい子だなぁ、と思いつつ言葉を返す。

「知らないよ。僕は江戸から外に出た事なんかなかったしね……ここに赴任してきたのは別にして。」

「OH! それじゃ俺、オバサンを知ってる人を探さなくちゃいけないね!」

ギルフォードは、更に何度も大きく首を振った。

そのうち首がもげちゃわないかなあ、この子。

思いつつ鈴木は言葉をかける。

「あのね、ぎるふぉーど君だっけ? 君はおばさんが日本のどこにいるのか、ちゃんと知ってるの?」

「OFF COURCE! 母さんとオバサンは、アイヌモシリに住んでたんだ!」

「……はぁ?」

(あいぬもしり……聞いたことないなぁ。何処の藩の言葉なんだろ。ん? ひょっとして、蝦夷地のことかなぁ?)

「オサムライサン、何独り言いってるの?」

「え」

鈴木はギルフォードを見、瞬間口をつぐむ。

「僕独り言言ってたの? まぁ、それはともかく、あいぬもしりっていうのが蝦夷地のことなんだったら、ここからかなり遠いよ?」

「OH! REALY!?」

ギルフォードは目を見開き、腕を大きく広げたがすぐさま指を鳴らした。

「OK! だったらエゾチへ行く汽車か船を探さなきゃ! ねェオサムライさん、エゾチはどっちの方角?」

「……とりあえず、この島から出て本土へ行かなくちゃいけないけど、ここ滅多に船は来ないよ。」

「WHAT!?」

ギルフォードの大声に、またしても鈴木は首をすくめた。

はぁ、なんかこの子は疲れる。

「OH,NO! どうにかならないかな?」

「今のところ、無宿人を輸送する船が来るって知らせはないんだけどさ、船が来るまで待ってみる?

でも多分乗せてくれないんじゃないかなあ。異人さんは本土に入れないから。」

「Oops! それは困ったネ! あ、そうだ。髪を隠せばなんとかなるかなぁ?」

「……どうだろう……」

言葉を返してふと気づく。

(なんでこの子と長々会話してるんだよ僕は! 早いとこ渡辺君や山田君や本田君に合流して、曲者を探さないと!

逃げたとかサボったとか思われちゃったら大変だよ!

……この子のことはどうしよう?)

目の前では、ギルフォードが自分の髪を鉢巻に押し込めようと弄り回している。

「あのさ、ぎるふぉーど君。僕は仕事の途中なんだ。もうキミに構ってられないからね、」

「ALL RIGHT!」

少年は突如立ち上がり、大声を響かせた。

「なっ、な!?」

仰天して、鈴木は思わず後ずさる。

「ハオーマルサンやジュウベエサンに連絡するネ! 昔父さんや母さんと協力して悪党たちをやっつけた偉大なスォーズマンなんだ、

きっと力になってくれるさ!」

「……君、僕の言うこと聞いてたのかな?」

一刻も早く戻らなきゃいけないのに。

内心途方にくれ、鈴木は肩を落とした。


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