天泣〜天草四郎時貞〜(6)

闇の中に、焔が揺らめいた。

タムタムは瞳を開く。

村は平和だ。だから彼は、戦いの面をつけてはいなかった。

瞑想の時が区切りを迎えた。

明かりを灯した村人が、小屋を出て行く姿が見えた。

今年は、直に暦が変わる特別な年だ。

マヤの人々は二つの異なる暦を使用していた。

一つは現在使用されている太陽暦と同じく、一年を三六五日とする”ハアブ(概年)”であり、

今一つは、神々の儀式に合わせた年間を二六〇日周期とする暦、”ツォルキン”(神聖暦)である。

二つの異なる循環を持つ暦が一致するには、実に五二年の歳月を要する。

マヤでは、いわばこの五二年で一つの時代が終了し、新たな時代が幕を開けるのだった。

暦の変わる年には、”トシウモルピリア”・・・・・・すなわち新しき火、と呼ばれる祭りが執り行われる。

祭りの行われる二十日の間、人々は断食と禁欲の生活を送り、あらゆる火を絶つ。

暦の更新を知らせる新たな炎が定められた聖地で灯され、祭司・呪術師たちが炎を村に持ち帰るその日まで。

勇者タムタムは、やがて執り行われるこの重大な祭事に参加する準備を始めていた。

毎日の瞑想。そして身を浄めて後村の五つの神殿全てを巡り、それぞれで祭事を執り行うのである。

祭事のために、村の若者たちはここ数日の夜間、交代で神殿を見回っていた。



それにしても帰りが遅い、とタムタムは思う。

見回りに出た友人たち。今夜はカクムとラトルの二人だ。

村の五つの神殿はそれぞれ、

太陽の神殿・ケツァルクァトルの神殿・戦士の神殿・風の神殿、そして封印の神殿と呼ばれ、

このヤシェル・スユア(グリーンヘル)の中心の広場に位置していた。

5つの神殿を隈なく見回っているとしても、そろそろ戻ってもいい頃合なのに。

村の若者たちの殆どは、タムタムにとって友。

彼らは見回りが済めば必ず、瞑想を終えたタムタムの前に顔を見せていた。


もしかすると、彼らの身に何か良くないことがあったのではないか。


思案しつつ立ち上がったタムタムは、目の前の揺らめく炎の中に異様な光景を見る。

天草四郎時貞。

魔の助けを得て、村の守護石パレンケストーンを奪ったあやかしの者。

その手にまたしても守護石が奪われ、

そして天草の正面には。

金の髪、白い肌の若く端麗な顔つきの男が立っている。

しかし、その男を目にした刹那タムタムは悪寒に襲われ、思わずその場に膝をつきそうになった。

勇者の誇りからそれは押し止めたが、幼い時の、あの夜のおぞましい記憶が甦り身を苛む。

黒い、どこまでも黒い、悪意と冷気のみを孕む無慈悲な気。

男を目にした途端、その気がタムタムに纏わりついてきた。

「アア・・・・・・!」

タムタムは呻く。

今宵、最悪の事態が勃発した。

十二年前にあの勇者が封じた黒い神が甦り、人の姿をとって村に降り立った。

村の勇者としてなすべきことはただ一つ。

タムタムは、瞑想のための小屋を走り出る。




タムタムが向かったのは、父である村長をはじめ神事”トシウモルピリア”を執り行う祭司・

呪い師らが寄り合っている家屋だった。

「父サ・・・・・・。村長!」

駆け込み、長である父にタムタムは勢い込みつつ告げる。

「黒イ神ノ気配! 皆ニ、外ニ出ルナト伝エテクダサイ!」

それだけ言うとタムタムは、背を向けて駆け出した。

長の周囲の呪い師たちの間に広がる、怪訝な表情とざわめき。

「聞いたとおりだ。勇者である息子の言葉、皆に伝えてくれ。」

タムタムの父にして村長であるサムサムは彼らに告げる。


十二年前の、あの夜。 ”封印の神殿”が一部崩壊し、

そこにいた息子タムタムは、風を操りし方”エエカトル”・・・・・・

伝承された逸話に寄れば、その呼び名を『大いなる天の蛇・アハウカン』

こと、本名を”ミシュクァトル(雲の蛇)”と言われるかもしれぬ方・・・・・・に連れ出された。

息子がその以前から訴えていた、黒い神の不吉な夢は真実だったのだと、あの時思い知った。

息子の他に気づいた者は誰もなかった。

息子の力はおそらく、霊力を持つとされる歴代の長の中でも、稀なる強大なもの。

世が世ならば、伝説の偉大なる王・トピルツィンのように、ケツァルクァトルの名を受けし神官の長となっていたかもしれない。

ならば、不吉な気配は他の誰に感じ取れずとも真実、と信ずることができる。

タムタムの父サムサムは、そのように思いを馳せながら家に帰り着いた。

「お帰りー、タム兄ちゃン!」

途端に、はしゃいだ声で飛びついてきた者がある。

娘のチャムチャムだった。

「お、お父さンッ!?」

厳格な父だということにようやく気づき、チャムチャムは裏返ったような声を出した。

「まだ寝ておらんのか。」

サムサムは娘に目を据える。

「ご、ごめンなさい〜。・・・・・・だって、タム兄ちゃンともう何日も会ッてないンだもン。

だからボク、今夜は頑張ッて起きててね、兄ちゃンに会ッて驚かそうッて・・・・・・。」

チャムチャムは身を竦めている。

サムサムは険しい目で娘を一瞥するが、すぐさま妻に目を移した。

「黒い神が目覚めた。」

サムサムの妻、兄妹の母ケンタが引き攣ったような短い悲鳴をあげる。

「トシウモルピリアにはまだ早いが、あれを使え。」

夫の声を受け、ケンタは奥に引き込む。

「黒い神・・・・・・? お父さン、それじゃタム兄ちゃンは?」

「勇者としての務めを果たしに向かった。」

チャムチャムは、一転明るい表情を浮かべる。

「じゃ、ボク兄ちゃンを手助けしに行くゾッ!」

そのまま、戸口から飛び出そうとする。

父サムサムは娘を睨み、一喝した。

「チャムチャヤ・ガヤ!」

チャムチャムは、びくんと縮み上がった。

大柄な父が注ぐ険しい視線が、彼女に突き刺さっている。

「勝手は許さん。家の中に入れ。」

体がすくんで、動けなかった。

タムタムを守る役割を持つ、豹の守護霊が入り込んでいる娘の心は、父の叱責にすくみあがってしまっていた。

うなだれて戸口から入ったチャムチャムの腕をとったのは、兄妹の母ケンタだった。

娘の腕を引き寄せた彼女は、手にした器から半透明のねっとりした液を掬い取るとチャムチャムの顔にこすりつける。

「ぷわぁ!」

顔を背けようとするが母はそれを許さず、チャムチャムの顔中にトウモロコシで作られた糊を塗りたくる。

その行為を続けている間中母は、呟き続けていた。

「ユム・カァシュ、日々の糧をくださる穀物の若君さま、この子を黒い神よりお守りください。」

「やだよッ! おかーさン、これ気持ち悪イッ!」

腕を振って逃れようとするチャムチャム。

「黙りなさい! 黒い神に浚われてしまうよ。」

チャムチャムの顔が、糊でべったりと塗り固められた。父サムサムが言う。

「お前たちは奥の部屋に行け。何があっても動くな。」

チャムチャムの腕を取り、母ケンタは夫の言葉に従った。


しかし、それからわずか数分後。

チャムチャムは4つ足で、それこそ豹のように地面を蹴って走り、我が家を後にしていた。

「おトイレに行きたいッ! ガマンできないよぉッ!!」

そう散々ごねて、母の手から半ば強引に抜け出して来たのだ。

チャムチャムは四つ足で走っていくと、家の近くの茂みに頭から飛び込む。

再び顔を出したときにはその両手に、木製の歪曲した大きな刃を握っていた。

先ほど顔に塗りたくられた糊に、草や枝がいくつかくっついてくる。

チャムチャムは糊ごと、ごしごしとそれらを拭い取った。

「あ〜、気持ちワルかッたぁ。」

その時、少し遠くから聞こえてくる何人かの人の声。

いけない、たぶんおかーさンたちだ。

チャムチャムは頭を引っ込めると、茂みからこっそりと猫のように抜け出す。

口に、曲がった木の刃・・・・・・その名をヨックモックムックという・・・・・・をがっちりと咥えると、四つ足で走り出した。

新しい武器のヨックモックムック。チャムチャムは、早く使ってみたくてうずうずしていた。

最初に使う相手は決まった。村中を不安にさせる黒い神だ。

これ、ちゃンとボクのところに戻ッてくるから安心だね。

黒い神だって、イチコロでやっつけられるンだから!

そしたらタム兄ちゃンにほめてもらうんだー。

チャムチャムは兄を探して、真っ暗な夜の村を四つ足で駆け抜ける。



「来たな。」

月に照らされた神殿の広場で。魔神テスカトリポカは、にっこりと笑みを浮かべた。

天草はその傍らに立ち、

現れた仮面の戦士を・・・・・・今は仮面はなかったが・・・・・・冷たく見やる。

「あの脆弱な小僧が、それなりに見栄えのする姿になったものだ。

このテスカトリポカの器となるにふさわしい武勇も身に付けたようだな?」

タムタムは歯軋りし、拳を握り締めた。

その手には、村の聖なる刀ヘンゲハンゲザンゲが握られている。

「かくむ・・・・・・らとる・・・・・・。」

もう、面影を残していない友たちの体に向かって語りかける。

二人の顔は消え、代わりに”黒い神”と天草が立っている。

「彼奴らは、我らの仮の宿となる栄誉を受けた。汝も今より務めを果たすが良い。

あの時より、汝は我の器となることを定められていたのだからな。」

「セメテ二人ノ・・・・・・ソノ体、親タチノ元ヘト返ス! オ前タチヲ倒シテ!」

「不可能なことよ。」

天草が言い放ち、魔神の若者は目を眇めてタムタムを見つめている。

「ほぉ? あの爺、くたばりおったのか。」

魔神の言葉を受けたタムタムの目に、激しい感情が宿った。

「なんとも無念なことだ。この手で存分に、あの時の礼をしてやりたかったものをな。」

「勇者ノ死ヲ侮辱スルコト、たむたむ許サナイ!」

タムタムは剣を構えた。

黒い神は、全てを見渡す”テスカトル(鏡)”を持ち、知り得ぬことは何もないと言い伝えられる。

それはどうやら真実のようだ。

「我ガ神けつぁるくぁとるヨ、守リタマエ!」

「貴様、我の前で”羽ある蛇”の名を口にするな。」

魔神の顔から笑みが消える。

「コラアーーーーーーーッ!! 待てぇーーーーーーい!!」

子供の甲高い声が響いた。

三者はそちらを振り返る。

「ちゃむちゃむ!?」

呆然となった兄の前で、チャムチャムは木の刃・ヨックモックムックを構えると、にっこりと笑ってみせた。


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