斬紅郎無双剣公式小説(弐)


滝を見下ろす大きな岩の上に一頭の狼が横たわっていた。そして、美しい青みがかった灰色の毛並みを震わせゆっくりと立ち上がり、

悠然と滝を見下ろしている。高さはないが水量の豊かな滝で、轟然たる音を響かせ、彼の足下にまで飛沫を巻き上げていた。

今日のご主人様はいつもより長く滝に打たれている。

滝の下にたたずむ少女の発する真剣な「気」が彼にまで達していた。

遥か遠くで鷹の啼き声がした。にわかにつむじ風が水飛沫を高く巻き上げ、一瞬小さな虹が架かった。

「シクルゥ!」滝の下から彼の名を呼ぶ声。泣いている!

「シクルゥ!村へ、急いで!」

少女が眼を真っ赤に泣き腫らし、狼の立つ大岩に駆け上がってきた。青ざめ、震えている。

「ねえさまが…ねえさまが行ってしまう。急いで、シクルゥ!」

雪溶けの冷たい水に打たれ、全ての感覚が消えていく。その瞬間、リムルルは見たのだ!

破天連の衣装に身を包み宝珠を抱いた邪眼の男が、姉ナコルルと闘う姿を。

「天草だ!」リムルルは、初めて見るその男を直感的に断定できた。

天草の持つ宝珠の中を小さな稲妻が駆け巡り、電撃となって迸り出た。

稲妻が、ナコルルの体を包み込み宙に舞いあげ、異国の文様の形に変化し縛り上げる。

天草はさらに宝珠そのものをナコルルの体に叩きつけた。

ナコルルの断末魔にリムルルの絶叫が重なり虚空にこだまする。

リムルルは打ち付ける滝の水圧に抗しきれずに跪いた。夢ではない。もちろん幻覚でもない。

神が見せた啓示なのである。敬愛する姉が死ぬ。確固たる予感に恐怖し、泣き叫んだ。



リムルルは走った。

間に合って!

助けて!

お願い、カムイウタリ!




閑丸は飛び起きた。

荒れ果てた社の中、地蔵の足元に丸まって眠っていたのだ。

ひどく寝汗をかいている。いつもの悪夢だった。いや、悪夢とはいえないかもしれない。それは彼を救うものなのだから。

視野の隅々まで真っ赤に染まっている。自分が怯えているのが判る。

視覚を取り戻そうと焦って、目を閉じようが強く擦ろうが視界は赤い闇のままなのだ。闇雲に走り回り、暴れまわる。

呼ばれたような気がして振り返ると、赤い闇を切り裂いて白い光が走る。そして、その光の向こうで鬼が鋭い牙を剥き出して咲(わら)う。

鬼の目は真っ赤に輝いている。恐ろしいものであるはずの鬼が閑丸にとっては救いの神となる。悪夢ではあるが、心休まるものでもある。

それが、ものごころつく以前から見慣れた夢であり、閑丸の唯一の記憶なのであった。

鬼に会うしかない。いずれ鬼に会って問わねばならぬ。引き取られた寺での用働きの傍ら、棒きれを手に剣術の研鑚に励んだ。

夢の中で赤い闇を切り裂いた鬼が見せた技を実践すべく、自由になる時間をすべて剣術の鍛錬にあてた。

自己流で鬼の剣を再現し、磨いたのである。

いつか旅立つ日のために。

出立の機会は間もなく訪れた。閑丸を拾い育てた僧が死んだのである。臨終の間際、閑丸に一振りの小太刀を与えて逝った。

古式の蕨手刀(わらびでとう)に似た作りで、通常の小太刀よりも大振りで厚みがある。


血の色の水晶球が柄頭にはめ込まれた珍しいものだった。

刀鍛冶の銘はなく、ただ「閑」とだけ刻まれていた。閑丸は、自分には名前すらないことを知った。

僧を手厚く弔うと寺を出た。自分が何者なのか、どこから来てどこへ行こうとしているのか、鬼に訊ねるための旅である。



「和尚!どこだ!和尚!」

枯華院の鎮守の森に骸羅の大音声が響きわたる。

「いるんだろう!出てこい、じじい!」

ひらひらと骸羅の顔の前に、形代が漂ってきてポンと小さな炎をあげた。

「何しやがるんだ、じじい!」

「ほ、ほ、ほ。年よりは大切にせんといかんなぁ、骸羅よ」

和狆は骸羅のすぐ斜め後ろにいた。骸羅は真っ赤になった鼻の穴を膨らませている。

「まったくいつまでたっても幼子じゃな、おぬしは。わしを呼んだのはその男のことでか。また力任せに殴り倒してしまったのではなかろうな」

「そんなじゃねぇ。街道の脇で血を吐いて倒れてたんだ。ほっとけねぇから拾ってきた」

骸羅は長髪の男を脇に抱えていた。まるで荷物でもぶら下げるようなぞんざいな扱いだ。

「ほほ、この男には覚えがあるぞ。確か居合いを使う…うぅ…歳をとると物忘れが激しくていかんな」

「お…鬼…。無念…」

右京が呻いた。

「こいつ、鬼にやられたんだな。鬼が出て暴れていると噂を聞いたが本当だったんだ」

骸羅は右京を放り出すと手にした数珠を握り締め手を合わせた。

「ナンマイダァァ。成仏しな!おれさまが仇はとってきてやる。やい、じじい!ちょっくら鬼を懲らしめに行って来るぞ!」

言うなり駆け出し、山門を抜け下りていってしまった。

「でかい図体はしていても稚児のままじゃわい。」和狆は呆れながら見送った。しかし、骸羅なら鬼に通用するかもしれない。

体が人並みはずれて大きく力が余っていたがために、厄介者のように寺に預けられてしまった男なのだ。

鬼が相手なら存分に生を全うできるだろう。

そう思いながら、懐から癒しの呪符を取り出し印を結んだ。

「おまえさん、たしか右京…といったね。また死に損なってしまったの」

動けるようになれば、この男はまた鬼を追うだろう。

斬り合いの中でしか生きていけない男なのだ。和狆の手に力がこもり慈しみの力が右京に注がれていった。



京都、四条河原。千両狂死郎は芝居小屋を立てていた。剣技に冴えた狂死郎歌舞伎による狂言「茨木」は、

京の遊興人の間で大評判であった。
村々を襲う噂の鬼そのものの迫力だというのだ。

茨木の筋立てはこうである。

腕に覚えのある兵(つわもの)、渡辺綱は羅生門に出没する鬼、茨木童子の腕を斬り落とした。

七日間、結界の内に籠もっての物忌みを済ませてしまえば腕は取り戻せない。

鬼は綱の叔母に化け、門を開けさせようと綱の情に訴える。

叔母の泣き落としに抗じきれず、門を開けてしまった綱と鬼による大立ち回りが演じられる。最後に鬼が勝ち、腕を取り返し去っていく。

その大立ち回りが始まったとたんに、舞台の袖にいた少年が席を立って帰ってしまったのである。

狂死郎は舞を止め、客の騒ぎをよそに舞台を降りて少年を追った。

「違った」少年がそう呟いたように、狂死郎には見えたのだ。

「違うだと!」

河原で少年に追いついた。

「小僧。確かに『違う』と申したであろう!我が舞の何が違うというのか。申してみよ!返答によってはただでは済まん」

「だって。あんた鬼を見たことないんだろ。偽物だもの。がっかりだよ」

「そなたは見たことがあるというのか、鬼の太刀を」

「うん…。僕も確かめたくて捜しているんだ、本物の鬼を」

寂しそうに少年は立ち去った。

ひとり狂死郎は怒りに震えていた。自らに対する怒りである。自らの芸に対する甘さを年端も行かない少年に指摘されたのである。

「真の鬼の舞、立ち会う必要があるようじゃ!」

もう芝居小屋どころではない。一座の者に興業を任せ、狂死郎は鬼探しの旅に出ることを決意した。

自らを真の鬼と為し、鬼舞を完成させるために。




「あんた、鬼の匂いがするね」

覇王丸の前に立ちはだかる少年があった。関ヶ原に近い東海道の小さな宿場町の外れである。

折しも日が暮れかけていた。魑魅魍魎が跋扈する刻限であった。

「待ってたんだ。あんた、鬼だろう?」

鬼…そのとおりだ。そして、この少年もまた…。

「俺は…鬼だ、坊主。鬼を斬るために鬼になった。鬼じゃなきゃ、鬼は斬れねぇ。お前、そうは思わないか」

少年の顔がぱっと明るくなった。両の瞳で燃えている炎がその輝きを増す。覇王丸の胸の奥でも燃え上がるものがあった。

一瞬にしてふたりはお互いを理解した。

閑丸が仕込傘を構え、覇王丸がゆっくりと抜刀した。

お互いに無言である。斬り合わねばならぬ、そう悟っていた。この男なら自分の過去に決着をつけることができるに違いない。

この少年ならば俺の剣から多くのことを学ぶだろう。

言葉にならないそれぞれの生きざまをぶつけ合うことによって、ふたりは言葉よりも雄弁に語り合うのだ。

ふたつの影が同時に跳んだ。


〔了〕


参照リンク:蕨手刀    壱:旭川市役所トップページより 弐:岩手県陸前高田市公式ホームページより

  

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