フェンリルは突如嵌められた手枷を破壊しようと腕に力を込めるが、びくともしない。

神闘士の膂力を以てすれば、枷の一つ破壊することなどわけはないはずなのに。

ただの枷ではない。

スルーズの叫んだレージングという言葉、それに呼応したかに見えた彼女の装身具。

フェンリルは歯軋りして少女を睨む。

その様子を笑みを浮かべて見ていたスルーズは、手にした短剣を構える。

フェンリルは、彼女めがけて駆け出した。

上空へ飛びあがり、少女を狙って蹴りを放つ。

彼女は怯んだが、その背に広がる装身具が瞬時に前面に集まり、

フェンリルの蹴りから彼女を防御した。




――――そういう能力があるのか。

フェンリルは後方へ飛び退く。

スルーズが短剣を突き出す。

「グラーバク!」

床から飛び出すように伸びあがった蛇が、フェンリルに襲い掛かる。

蛇の頭に蹴りを放ち、着地したフェンリルはスルーズの方へ走り込もうとする。

「グラフヴィトニル!」

先ほどの大蛇が現れた。

フェンリルは大蛇の体を飛び越し、なおもスルーズを目指すが先に召喚された蛇・グラーバクが追いかけてきた。

両手が封じられたため、技は放てない。

足に力を込め、フェンリルは蛇の顎に両足を揃えた蹴りをお見舞いする。

空中で回転し、着地したフェンリルにもう一匹の大蛇・グラフヴィトニルが牙を剝いて向かってくる。




足だけを使い二匹の蛇と格闘している間に、フェンリルはふと疑問に思う。

もう一匹の蛇が出てこないことを。

目の端に映る少女が蛇を召喚する様子はない。

(3匹に増やせば、俺を仕留められる機会は増えるんじゃないのか?)

ユグドラシルの蛇二匹を相手に暴れまわるうち、またふと考えが浮かんだ。

ひょっとしてあいつは蛇を"召喚しない"んじゃなく、"召喚できない"んじゃないのか、と。




"召喚できない"のだとしたら、それはなぜか。

思い当たる節としては、今両腕を封じているこの枷。

もしかするとこの枷は、出てこないもう1匹の蛇が姿を変えたものではないか?

あの背中の変な道具は、そのためのものなのかもしれない。

何にせよ、このままじゃ埒があかない。




フェンリルは二匹の蛇の体の間に、通り抜けるのが可能な隙間が空いた一瞬を見計らって、蛇から離れ壁めがけて飛んだ。

そのまま壁を走り、スルーズの側まで走り込む。

驚きに目を見開くスルーズ。

フェンリルは雄たけびを上げ、再びスルーズ目掛けさらに力を入れた蹴りを見舞った。

再度、彼女の背から伸びた装身具が防御の形を取る。

しかしその衝撃は、今度はスルーズを後方へ押しやった。




スルーズの顔に焦りが浮かぶ。

彼女は手にした短剣をフェンリルの方へと突き出すと、

「ドローミ!」

そう叫んだ。

首の両側にある猪の牙に似た突起2つ。背中の装身具に繋がるそれが光ると同時に、フェンリルの両足の周りを取り巻く靄。

それが足枷へと変化した。

フェンリルは受け身を取れず、そのまま落下する。

立ち上がることもままならずに、動きは殆ど封じられた。

その様子にほっと息をついたスルーズは、

「もうちょこまか動けないでしょ? できるのは精々、這いずるか座り込むかくらい」

嘲りの言葉を投げかける。

転がってスルーズから距離を取り、フェンリルは彼女を睨みつけた。

「大体さ。お前、なんでここへ来たわけ?」

スルーズの声が響く。

「あの女のために戦う理由があるの? お前の家は、もともと神闘士が選ばれる家系って聞いたけど」

続く声には、明らかにいら立ちが混じっていた。

「あんな女のために命を掛ける理由なんか、どこにあるっていうの!?」

フェンリルの方へ歩み寄り、手にした短剣を構える。

「あたしたち皇闘士ラグーナの役目はね。邪悪に堕ちた代行者を処刑すること。

そしてふがいない代行者にしがみつく、未練がましい神闘士も始末することなんだよ!」

短剣を振りかざし、

「ブリーシンガ・メン!」

そう叫び、飛び上がった彼女はフェンリルの側の床に短剣を突き立てた。






その頃。

ワルハラ宮の謁見室では、ヒルダの妹フレアが、小さき巫女ヴォルヴァの呼び出しを受け再度入室していた。

そこで彼女は、思ってもいなかった依頼を受けることとなる。

「―――地上代行者であるヴォルヴァ様の仰せならば、もちろんお受けいたします。

でも、私にできるのでしょうか」

玉座に続く階段前に設けられた、円形の祭壇内で燃やされている炎が、二人を照らし出す。

「あなたでなければできないことなのです。あすがるどをすくうため、どうかちからをかしてください」

玉座にかける子供は言った。

その肩に止まる白い猛禽と、膝に寝そべる猫の両方がフレアを見ている。

「わかりました。すぐに出発いたします」

フレアは決意を込め、そう代行者に答える。





ビルスキールニル。

540の部屋を有する雷霆神の巨大な館は、屋根の先端のあちこちから奇妙な突起が突き出ている。

よく見ればそれらは、船の舳先部分を模していた。

ビルスキールニル最奥部に立つ高楼、上部の非常に広いバルコニーには今、本物の巨船が設置されていた。

それは神の船・スキーズブラズニル。

ワルハラ宮奥のプラザから見える、巨大なオーディーン像の足元にある船はそれをかたどっている、と言われている。

アスガルドが面する北極海を向くその舳先の上部には、女性が仰向けの状態で拘束されていた。

両手の先からつま先に至るまで、全身を締め上げているのは一本の紐。




火山ロガフィエルを除き、アスガルドで最も高峰であるヒミンビョルグの麓から頂上までを占拠する、

ビルスキールニルの高楼に戒められている女性―――

先のオーディーンの地上代行者・ポラリスのヒルダの身に凍てついた強風が容赦なく吹き付け、髪やドレスの裾が舞い上がる。

ヒルダは精神の集中により、ある男の姿を見ていた。

その目ではなく、その心で。

彼女が戒められている場所からそう遠くはない、ビルスキールニル高楼で最も広大な広間・玉座の間に居る大男。

赤い髭と赤い髪を持ち、時折紫電を放つ冷たい目をした雷霆神フロルリジ。

神闘士フェクダのトールの、体を依り代とした神を。




フロルリジは豪勢で巨大な玉座に掛け、玉座のほど近くには、神器ミョルニールが中空に浮かび、時たま稲光を放っていた。

籠手ヤールングレイプルを嵌めたフロルリジの手には、角杯ドリンクホーンが握られている。

かつて世界の海を駆けたヴァイキングたちが、酒宴の際に使用し、また神に捧げる神酒を注いだとされる、動物の角を模して造られた盃。

フロルリジのそれは金属製かつ大型で、数々の宝石で飾られた豪奢なものだった。

彼は時たまそれを呷る。

神話によれば、フロルリジは並外れた酒豪であるという。

彼は飲酒しているのだろうか。

何かそうする理由があるのだろうか。




フロルリジの氷のように冷たい、紫電の閃く目を見るたび、ヒルダの胸には悲しみが突き刺さる。

かつてあの目は、澄んでいてとても優しかった。

あの柔和な緑色の目を持った人は、私とかかわりさえしなければ、

神闘士に選ばれることさえなければ、

幸せに毎日を送ることができたのではないのだろうか。

だが仮に神闘士に選ばれずとも、彼が雷霆神の依り代として生まれた宿命はどうにもできなかっただろう。

理性はそう判断しつつも、ヒルダは彼の運命が自分のせいなのではという思いを抑えることができなかった。




その時突如、彼女のすぐ側に何者かの気配が降り立つ。

「ふぅむ」

舳先に拘束されたヒルダを見下ろし、男が立っていた。

「Hófvarfnir」

長い白金の髪を冷たい風に靡かせている、男の唇からこぼれたひとつの言葉。

「先の北極星の娘よ。どうやらそなたは、"かの修行"を積み重ねていたようだね」

光神ヘイムダルは、ヒルダを真上から見下ろし、にっこりと笑む。

「感心なことと誉めるべきか、それとも不敬と咎めるべきか」

光神はふいと虚空に目を向ける。

「今やどちらも無益かな。じきにラグナロクによって、すべては終わるのだから」

「――いいえ!」

紐に拘束され、身動きも叶わぬヒルダはヘイムダルを見据え言い放った。

「させません。ジークフリートたち神闘士が、必ずあなた方の野望を砕きます」

いいや

優しくヒルダに微笑みかけながら、光神は告げた。

「神闘士は全員ここで死に、地上はラグナロクによって滅ぶ。それが運命なのだよ」

「違います。オーディーンはそのようなことをお許しになりません!」

「オーディーンに祈ろうとも、それもまた無益なこと。彼の栄光はとうに潰えた。

オーディーンはもはや何の力もなき、かつて神だった男に過ぎない。アスガルドの民がどれほど祈ろうとも、決して降臨せぬのだよ」

あくまで微笑みを絶やさず、ヘイムダルは続ける。

「ひとつそなたのために教えてあげるならば―――降臨できぬ、と言った方が正しいかな」

光神は海の方へと視線を向けた。

その唇から発せられる、高らかな旋律。



Geyr nú Garmr mjök fyr Gnipahelli,

festr mun slitna,en freki renna;

fjölð veit ek frɶða,fram sé ek lengra

um ragna rök römm sigtíva.




先ほど牢内でも聞いた節だった。

その意味をヒルダは知っている。

ラグナロクの旋律と呼ばれる、『巫女の予言』で幾度か繰り返して歌われる節は、次のような意味となる。




今やガルムはグニパヘリルの前で激しく吼える、

枷は断ち切られ、フレキは走り出す。

我全てを見渡し、我全てを知る、

もろもろの神々、勝利齎せし神々に降りかかる

神々の黄昏ラグナロクを。




ただ、その内容が正確には何を意味しているのかを知るものはいない。

ラグナロクの際に神と相打ちになると伝わる魔犬・ガルムとはそもそも何物なのか。

ガルムが吼える場所・グニパヘリルとは、いったい何を指すのか。

光神は続けて歌う。

歌声は凍てつく風に流れていく。



Hrymr ekr austan,hefisk lind fyrir,

snỳsk Jörmungandr í jötunmoði;

ormr knỳr unnir,en ari hlakkar,

slitr nái Niðfolr,Naglfar losnar.



巨人フリュムは東より馳せ参じ、盾を前に構え持つ。

巨大蛇ヨルムンガンドは"巨人の怒り"に駆られつつ、

身をくねらせ、波を打ち叩く。

鷲は叫び、ニーズホッグは屍を引き裂き、

ナグルファルはもやいがほどける。




その時、ヘイムダルの頭上から何かが降りてくるのをヒルダは見た。

先ほど、フロルリジが使い酒を呷っていた角杯ドリンクホーンだった。

「お受けいたします、フロルリジ様」

畏まるヘイムダルの手に、角杯ドリンクホーンが舞い降りる。

それは彼の手の中でみるみるうちに形を変え、極長の細く湾曲した管と、丸い飾りが一面についた朝顔ベル(ラッパの広い方の口)を持つ楽器と化した。

北欧において、ルーズル(lúðr)と呼ばれる青銅製喇叭。

だが、それが何であるかをヒルダは知っている。

ギャラルホルン。

光神ヘイムダルが、ラグナロクの訪れを告げるために吹き鳴らす、終末の楽器。

「時は今来たれり」

朗々とした声が響き、美しき光神は吹き口に唇を寄せる。

喇叭の音がビルスキールニルに、ヒミンビョルグに、アスガルドに響き渡った。


 




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