ヤールンサクサという名で呼ばれるそれは、 古代にゲルマン民族の一派・サクソン人が使用し、そこから名づけられたとされる武器"サクス"である。 刀身の片側に掘られたルーン文字が幾つも連なっており、 聖闘士や神闘士とも互角、場合によってはそれ以上に渡り合える力を発揮するのである。 短剣ヤールンサクサの刃が突き立てられた周囲に、円を描いて光の筋が大量に発生する。 光は収斂し、フェンリルに襲い掛かった。 神闘衣の上からすら身を貫く、焼けつくような痛み。 「ぐあッ」 一声発してフェンリルはこれ以上のダメージを避けるべく、床を転がってスルーズから離れる。 その時二人の頭上に、部屋の全体に、否ビルスキールニルのすべてに、喇叭の音が響き渡っていく。 痛みをも押しのけ、フェンリルの全身の肌が総毛立つ。 音は知らせていた。とてつもなく大きな、逃れようのない危険の接近を。 それはあらゆるものの終末。 フェンリルの持つ野生の勘が、そう告げていた。 「はじまる……ラグナロクがついにはじまる!」 スルーズの表情が喜びに輝いた。 「あの女はもうおしまい! やっと報いを受ける時が来たんだ!」 少女は笑い出した。高らかに。 笑い声は途切れることなく、その姿は狂気じみてフェンリルの目に映った。 あいつの姿、どこかで見たことがある気がする。 どこでどのように見たのか。 心の中でそれをたぐっていくフェンリル。 やがて、認めたくない答えにたどり着いた。 ―――あれは俺だ。 龍星座の聖闘士の前で笑っていた、奴を嘲っていた時の自分。 俺はあんな醜いザマで笑ってたのか。 胸の中がざわざわして、腹の底から黒い靄が立ち込めているような気分。 どうしようもない嫌悪感に苛まれつつ、両手両足を封じられたフェンリルは少女を見ている。 「おい……あの女っていうのは、まさかヒルダ様のことか」 スルーズは笑いを止め、そう言ったフェンリルを見下す。 「そうさ。あいつは今、フロルリジ様のいらっしゃる玉座の間近くに置かれてる、神の船で縛りあげられてるよ。 いよいよラグナロクが始まった。ナグルファルが復活したんだから、フロルリジ様はヒルダをその犠牲にされるんだよ!」 「なんだと……」 手足を枷に拘束されているフェンリルは、なんとか身を起こす。 「お前、〔血ノ鷲〕って聞いたことある?」 再び狂気じみた笑みを浮かべたスルーズが、フェンリルに問う。 「オーディーンに捧げる犠牲の中でも、高貴な者だけに処される死刑方法さ」 かつてヴァイキングの行ったとされる処刑法の中でも、最も残酷と言われる"血ノ鷲"。 実際に行われていたかについては意見が分かれるが、その詳細は『オークニー諸島の人々のサガ』に記されている。 サガとは"物語"を意味し、ヴァイキングたちの活動や闘争などを記した年代記である。 そして彼らが"長足のハルヴダン"(ノルウェー王の息子)を見つけた時 泥炭のエイナル(オークニー伯爵の末子。ハルヴダンは父の仇)は剣で彼の背骨から肋骨を切り離し、 彼の背中から肺臓を引き出した。 エイナルはオーディーンに、勝利の御礼として犠牲を捧げたのである。 「それが血ノ鷲を彫り付ける、ってこと。 フロルリジ様のお身体は、もともとトールのものだもの。 つまり、ヒルダの喉を掻っ切って肋骨を切り落とし、肺を抉り出すのはトールになるんだよ。 ざまあみろ能無しの偽善者! トールの復讐の刃を受けて死んだらいい!」 「お前!」 フェンリルは叫んだ。 「トールがどんなにヒルダ様を慕ってたか知らないのか!」 「はぁ!?」 スルーズはフェンリルをぎっと睨みつけた。 「バカじゃないのお前。あるわけないじゃないか。あの女さえいなかったら、トールはあんな目に合わずに済んだんだよ!」 「この馬鹿野郎!」 フェンリルの怒号は、スルーズを怯ませるに十分なものだった。 この世に舞い戻ってからフェンリルは、あるきっかけでトールの家に行き、数日を共に過ごすまで、 自身の生家であるフェンリル家の跡地から出るつもりもなく、無気力に日を過ごしていた。 もう何をする気もなかったし、何をすればいいのかもわからなかった。 そんな迷い子のような状態だった。 だって、"神"はどこにも存在しなかったから。 あの時。 神闘衣が出現したフェンリル家跡地に現れた、彼が"神"と平伏した"ヒルダ"が幻のようなもの――― ニーベルンゲン・リングに創り出された、"偽者"だったと知って。 それなら自分が神闘士である意味はどこにあるのか。 フェンリルにはわからなくなった。 だから再び世に舞い戻ってからは、一度もワルハラ宮へ出向かなかった。 そんなフェンリルが初めてまともに接した"仲間の神闘士"のトールは、 微笑みながらこう言った。 だったらお前は、今からヒルダ様のことを知ればいいんだ、と。 「ほっといてくれ」 フェンリルは吐き捨て顔を背ける。 「俺もお前も、神闘士でいる意味なんか、もうないだろう」 それだけ言うと、顔を伏せて黙り込む。 隣に腰かけ、フェンリルをじっと見ているトール。 ほんの少し逡巡していたようだが、意を決したらしく口を開く。 「俺は昔、ヒルダ様に助けられたんだ。ワルハラ宮の森で狩りをして捕らえられた時に」 フェンリルはちらりとトールを見る。 「それまで俺はヒルダ様のことを軽蔑していた。というより……どうでもいい、無関係な人だった。 俺たちの上でふんぞり返っているだけで、何もしてくれないと。 初めてヒルダ様にお会いした時――正直、とても綺麗だと驚いた。 だがヒルダ様が綺麗に見えるのは、うまいものを喰って仕立てのいい上等な服を着て、化粧と宝石で飾っているからだと思ったんだ」 膝上に組んだ腕に顔を埋めたままでいるフェンリル。 「それは俺の間違いだった。あの方が美しいのは、あの方の小宇宙が限りなく暖かく、気高いものだからだ」 トールの手が、フェンリルの肩に置かれ。 「フェンリル」 少し力の籠った声が呼びかける。 トールの方に少し顔を向けると、真摯な彼の表情が見える。 「ヒルダ様と会ってみろ」 フェンリルを真っ直ぐに見据え、なおもトールは続けた。 「あの方がどんな方なのかを、お前自身の目で見るんだ」 とても真剣な声だった。 「お前は神闘士だろう。俺たち神闘士は、ヒルダ様を守るために選ばれた存在だ」 トールは、心の底からそう思っているんだろう。 それはフェンリルにも伝わった。 言われたことをそのまま信じる気になど、その時はとてもなれなかったけれど。 でもひとつ確かなことは。 ヒルダ様はギングを助けてくれた。 トールを助けたというのも、あんなふうだったんだろうか。 「神闘士が守るのはオーディーンの地上代行者なんだろ。 だったら俺たちが守るのは、ヴォルヴァ様なんじゃないのか」 そう言うとトールは笑った。 「そうだな。だが俺は、ヒルダ様が今のままで幸せだとは思えないんだ」 その笑顔を思い出したフェンリルは、目の前のスルーズを睨みつけた。 この女は、 目の前にいるトールの知り合いだった ヒルダが無惨に死ぬのを、 トールによって命を絶たれるのを期待して笑っている。 歯を食いしばり、立ち上がったフェンリルの中で、憤怒は炎と変じていった。 |