「ハッ! 立ちあがったところで、お前に何ができるっていうの!?」 フェンリルを嘲笑うスルーズ。 両手両足が使えず、当然技も放てない。 もうフェンリルに打つ手はないはずだと、 スルーズは短剣ヤールンサクサの柄を握りなおす。 彼女の技、ブリーシンガ・メンを浴びせかけてとどめを刺すために。 獣のような唸り声が、フェンリルの喉から漏れた。 スルーズの脳裏に、こちらを冷たく見据える狼の姿が過る。 ぞっと背筋が冷たくなり、 次の瞬間、フェンリルの姿が消えた。 (えっ!?) 訝った刹那、 フェンリルが宙を飛んで突っ込んでくる。 神器ヒルディスヴィーニの防御をもってしても、吹っ飛ばされ壁に激突するのは防げなかった。 辛うじて大きなダメージは受けずに済んだが、身を起こしたスルーズはパニックに陥る寸前だった。 (どっ……どうして!?) 一方スルーズに体当たりし、着地したフェンリルは地面を転がり、上体を起こす。 手足を封じられているというのに、アリオトのフェンリルは何故これだけ動けるのか。 このままでは彼女の短剣を使用した技、ブリーシンガ・メンは使えない。 お互いが自由な状態では発生まで数秒あるため、聖闘士や神闘士相手だと察知され避けられてしまう。 故に、神器で創り出す手枷レージング・足枷ドローミは必須であり、フェンリルに両方を嵌めた時点で勝利は確定のはずだった。 足枷を嵌められた状態でひょいと軽く跳ね立ち上がり、うまくバランスを取っているフェンリルがこちらを見ている。 彼女を冷たい目で見据えつつ唸っているその姿は完全に、人の形をしているだけの獣であった。 (これが……ウルヴヘジン。ギリシャの 背筋がぞっと総毛立つ。 アリオトのフェンリルは、ウルヴヘジンの血を受け継ぐフェンリル家の末裔だという。 ウルヴヘジンはかつて神話の時代、アースガルズに攻め込み、オーディーンの軍勢を苦しめた、 オリンポス12神の一柱・戦神アレスとその配下らの洗脳によって創り出されたもの。 「安心するがよい。ウルヴヘジンは神器を破ることはできぬ。 それができるのは同じく神器を持つもののみ。すなわち、オーディーンの眷属たるアース神以外にありえないからね」 そう彼女に告げた時、ヘイムダルはにこりと笑んだ。 (それなら……あいつにこのヒルディスヴィーニの防御は破れない。 ブリーシンガ・メンを罠を張る形で放っていけば、絶対に仕留められるはず) 彼女は体勢を立て直し、短剣ヤールンサクサを構える。 「ブリーシンガ・メン!」 短剣を床に突き立てると、 数秒後フェンリルのすぐそばの壁から光の束が発生し、フェンリルを襲撃する。 床を転がりかわすフェンリル目掛けて、 「やあッ!!」 さらに短剣を突き立て続け、幾つもの光の束を発生させる。 それらが収斂し、フェンリルを休む間もなく駆り立てる。 しかし、 guaaaaaaaaaa 獣の声で叫び、床についた手足をバネに飛び上がったフェンリルが突っ込んでくる。 両手を振り上げ、枷もろともスルーズ目掛けて叩きつけてきた。 軋みと不吉な音と共に、彼女を守る6本の装身具のうち1本、その先端にヒビが入ったのをスルーズは見た。 「ひっ」 ひび割れて先端が欠け落ちた神器を目にして、喉が鳴り血の気が失せた。 (どういう……どういうこと!? ウルヴヘジンに神器は破壊できないって……そうおっしゃったじゃないですか、ヘイムダル様!) オーディーンの同族にして、配下でもあるアース神族。 中でも最有力の神々は、アース12神と呼ばれている。 神の武器にして、同時に神の力を注ぎこむための"神の器"でもあるという神器。 それは12神の中でも、オーディーンを除いては高位のものである六柱の神々しか所有していない。 神器を損なうことができるのは、同じく神器を置いてほかにないという。 (神闘衣が神器と同じものとでもいうの!? でもオーディーンローブをはじめとして、アース神がまとうのは 何もわからない。 しかしはっきりしているのは、 このままでは神器は破壊され、彼女は防御手段を失う。 "ウルヴヘジン"化した今のアリオトのフェンリルの前では敗北必至……その先にある死が、確実に近づく。 首を振って恐怖を振り払う。 (なんとか……なんとかしないと!) 思いつけた打開策は一つしかなかった。 グレイプニル。 それは神器ヒルディスヴィーニで創出できる拘束具の中でも、究極のもの。 神器を与えられたスルーズは ヒルダの身を縛り上げている今のグレイプニルは、彼女の使役できるユグドラシルの蛇7匹のうち、 オヴニル・スヴァフニル・ゴーイン・モーインの4匹で構成されている。 「 戦神テュールの抑揚のない声が脳裏に蘇った。 「かつて神話の時代、悪神ロキがオーディーンを裏切った時。 捕らえに向かった神々の中で実際にロキを捕縛したのは、 彼女は毒蛇をよく使い、ロキも抵抗できなかった。 ユグドラシルの蛇を使役する 常の優しげな笑みを浮かべたヘイムダルが、そう続けた。 (グレイプニルを使えば……!) ただグレイプニルをここに召喚すれば、ヒルダは自由の身となってしまう。 なったところで、ビルスキールニルで最も高さがある高楼のバルコニーの上。 しかも船の舳先に縛られていたのでは、ただ転落するのみ。 数百メートル落下した先は岩盤。五体は砕け散り、まず助からないだろう。 ただしそれでは、"トールにヒルダを殺させる"スルーズの復讐の計画は台無しになる。 gruuuuuuu 低い唸り声が聞こえた。 ウルヴヘジンと化したフェンリルが姿勢を低くし、常よりもさらに狼に近い構えを取っている。 (……! もうやるしかないじゃない!!) 短剣ヤールンサクサを構え、フェンリル目掛けて突き出す。 「グレイプニル!!」 ヤールンサクサの刀身に掘られた幾つものルーン文字が、これまでで最大の光を放った。 神の船、スキーズブラズニルの舳先。 小宇宙を少しずつ魔の紐グレイプニルに吸収され、もはや意識も幽かとなったヒルダの体から、 突如グレイプニルが消失する。 彼女はそのまま舳先からずり落ち、落下していった。 意識が殆ど残っていない状態だったのは幸いだったろう。 数百メートル先の固く鋭く尖った数々の岩盤に向かって落ちていくのを認め、恐怖を覚えることもなかったのだから。 「おや」 ビルスキールニル、玉座の間に隣接する小部屋の窓から見えたのは、落下していくヒルダの長い髪とドレス。 それらが翻るのを目にして、光神ヘイムダルは呟いた。 その時轟音が届く。 ビルスキールニルの地下部分、同時にヒミンビョルグ山の中腹部が 内側から凄まじい衝撃を浴びせられて砕け散ったのだ。 小規模な火山の爆発のようだった。 そこから上空へと、まっすぐに飛翔する何か。 「おやおや。これはこれは」 それを認めたヘイムダルの声が弾む。 「ごらんなさい、テュールよ。彼が初めてではないですか?」 その方向に差し伸べられる指。 隣に立っていた戦神テュールの表情が、これまでよりもさらに冷淡さを増した。 「数千年の歴史の中で、エインヘリャルと化した神闘士は! 見事試練を克服しましたね!」 嬉し気な声に何ら反応を示すことなく、テュールは神の船が安置されたバルコニーへと歩み出した。 「しかし、いくらエインヘリャルと目覚めたとて……真の そなたが並ぶことも超えることもあり得ぬよ? 竜殺しのヴェルスングよ」 ヘイムダルは優しく笑っていた。 「人が神を超えるなど、起こるはずもないからね」 山腹を破って飛び出してきたのは、アルファ星ドゥベの神闘士ジークフリート。 彼はひたすらに、落下するポラリスのヒルダ目掛けて飛翔する。 それが可能なのは、彼のまとう神闘衣の背に今、竜の翼があるからだ。 ジークフリートはその両腕に、落下してきたヒルダを抱き留めた。 竜の戦士が安全な場所を求めて降下する。 それを狙って光る刃。 「 技を放とうとしたテュール目掛けて、 「捨て置け!」 巨雷の如き声、すべてを震撼させる厳かな声が響き渡る。 戦神の顔に初めて浮かぶ動揺。 剣をその場から消滅させ振り向くと、雷霆神が立っていた。 人並外れた巨体で生まれたフェクダのトール、その体を依り代としたオーディーンの息子。 冷風に靡く赤い直毛、赤い髭、氷のような紫電が閃く目。 「彼奴等は俺が倒す」 フロルリジの厳しい声に、テュールとヘイムダルはその場で跪く。 地面に着地し、ジークフリートはヒルダを山肌に横たえる。 「ヒルダ様! ……ヒルダ様!!」 数度呼びかけるが、目を閉じぐったりとした彼女から反応はない。 ビルスキールニルから立ち去り、ヒルダの身の安全を確保するという考えが脳裏に浮かび、 彼女を抱き上げようとしたジークフリートの動きが止まった。 ヒルダの手が動き、彼の手を握っていた。 繋がった掌を通じて伝わってくる、今は語ることも叶わない彼女の意思。 ジークフリートは主君より、思ってもみなかった"可能性"を告げられて、目を見開く。 (しかし……それが真実であろうとも) 彼は雷霆神が立つ高楼の最上階に目を向け、睨みつける。 (貴女を害そうとするものは容赦しない!) 羽音がした。 ジークフリートが見たものは、常に現地上代行者ヴォルヴァの傍らにあるはずの白い隼。 ソグンがすぐ近くで羽ばたく姿だった。 |