「じーくふりーと」

隼のソグンがクチバシを開き、そこから小さき巫女ヴォルヴァの声が響く。

「ごずへいむをめざしなさい。ひるだをすくうために」

ジークフリートは、代行者の声を発している隼を凝視する。

(ゴズヘイム……?)

「いま、ふれあも、ごずへいむをめざしています」

「フレア様が、ですか? 一体なぜ」

「ふれあがめざすものは、どうじにひるだをすくうものでもあります。いそぎなさい、じーくふりーと」

「……はっ!」

その言葉に心を決め、両腕にヒルダを抱えてジークフリートは立ち上がった。




雷霆神フロルリジが玉座の間へと立ち去った後。

最古の二神はバルコニーに立っていた。

「テュールよ」

そう呼びかけた光神ヘイムダルの声には、ほんの僅かながらもこれまでにない険しさが混じっている。

「娘がひとり、馬でゴズヘイムを目指しています」

テュールが冷たく視線を向けた。

「われらの妨げとなる資質を持つ娘、ですね」

光神が、にこりと微笑みかける。

「行くしかありませんか」

その言葉の頃には、踵を返した戦神はバルコニーから歩み去ろうとしていた。





皇闘士スカディことスルーズが、第一の結界グリョトトゥーナガルザルを張ったビルスキールニルの一室。

「グレイプニル!」

まるで獣人と化したかのようなフェンリル。

スルーズに飛びかかろうとしたその身体が、スルーズが召喚したか細く長い紐に、瞬時に雁字搦めにされる。

究極の拘束具の威力は絶大だった。

「GUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

獣の叫びが、フェンリルの喉から迸った。

だが、すでに身動きも叶わないほど紐はフェンリルの五体を締め上げ、紐の端は部屋の四隅に強固に張り付いていた。

さながら簡素な蜘蛛の巣が瞬時に完成したようだった。

「やった……!」

スルーズの顔は喜びと安堵に輝く。

「GUUUUUUUUUUUUUU」

身を雁字搦めにした紐の中で、唸りながら身をよじっているフェンリル。

両手の手甲に付属する突起を、手枷越しに何度も突き立てようとしている。

だが、突起が幾度かかすっても紐はびくともしない。

「あはは……! 無駄さ、どんなに暴れたって切れやしないよ。グレイプニルを断ち切れる奴なんてこの世にいない!」

スルーズは手にした短剣・ヤールンサクサを構え、切っ先をフェンリルに向けた。

「そろそろ終わらせるか。消えな、ウルヴヘジンの末裔!」

手の中でヤールンサクサを回していた時。

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」

凄まじい大音響が轟く。




「……えッ!?」

短剣を振り上げ投げつけようとしたものの、フェンリルから立ち上る異様な小宇宙を目にして、スルーズが固まる。

「GOGAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」

フェンリルが大音声を上げた。

その身体から小宇宙が異様に高まり、炎のように揺らぎ、

ついに爆発する。

スルーズは悲鳴を上げ、飛び退いてから漸うフェンリルの様子を見た。

究極の拘束具であるはずのグレイプニルが、立ち昇る炎の小宇宙に侵食されるかのごとくに変色していき、

徐々に溶解していくのが目に映る。

「うそ……」

目を見開き、呆然とつぶやく彼女の前で、獣と化したフェンリルが笑っていた。

人のものとも思えぬ哄笑が周囲に響き渡る。

その異様な姿が一瞬にして、過去の記憶を蘇らせた。

「お前……あの時の!」

刹那恐怖も忘れ、少女は叫ぶ。

雪が舞っている。

白い地面の血だまり。

目の前に倒れた、喉を食い破られた羊。

怯えて泣く彼女の前に差し伸べられていた、大きな大きな、

逞しくて優しい手と腕。



しかし蘇った記憶は次の刹那、圧倒的な恐怖にかき消され真っ白になった。

グレイプニルは完全に崩壊し、同時に手枷と足枷も消滅した。

自由になった獣は降り立ち雄たけびを上げると拳を握り、彼女目掛けて飛びかかってくる。

スルーズは、あらん限りの悲鳴を上げた。




大音声を立てて壁が崩れ去り、獣が飛び出してくる。

同時に砕かれた鎧をわずかに身にまとった人影が転がり出て、床に倒れ伏した。

彼女のまとっていた鎧の残骸と神器の残骸の、飛び散る音が響く。

広大な廊下に着地した獣が身を起こし、動かない人影……敵を、否獲物を認める。

瓦礫の中、ゆっくりと近づいていく。

guuuuuuuu……

低く唸っていたフェンリルは、その拳を振り上げる。

手甲の両脇に取り付けられた、狼の牙を模したふたつの突起が倒れた少女目掛けて振り下ろされようとしたとき。



目に入ったのは、気を失った金髪の少女の顔のわきから流れ落ちる血の筋。

フェンリルは、

目をいっぱいに見開いた。


「ママ!」


あの日熊の爪に引き裂かれ、二度と動かなかった、母の金髪と血潮。



「かあさ……」

つぶやいたフェンリルの瞳から、凶悪な野生の気は消え失せていた。


言葉を飲み込み、首を振る。

この女は母さんじゃない。

敵の皇闘士ラグーナだ。

再び、拳を握り振り上げようとした。

力が入らない。

力を入れようとした。それでも入らない。

フェンリルは立ち尽くす。

途方に暮れる。

もう一度少女を見下ろす。

……こいつは?



幾度か瞬く。

ぼんやりとしていた頭の中の風景が、少しずつ鮮明になっていく。

白いものが舞っていた。

それは牡丹雪。

それらがたくさん、吹雪いて舞っている中。

泣きじゃくっている、金髪の幼い少女。

背後で怯えて身を寄せ合っている羊たち。

子どもの前に大きな長い腕を差し伸べ、こちらを見据えている若い男。

並外れて大きな体の彼には、まだ髭がない。

つるりとした頬をして、首ぐらいまでの長さの直毛、緑色の綺麗な目を持つ若い男は

フェンリルを見据えて言った。

「この羊たちは、こいつと家族の生きる糧だ」

フェンリルは。

襤褸ボロと化した、かつては上質のものだった衣服をまとい、

横にはギングを、背後に狼たちを従えた冷たい目の子供は、

そう語りかけてきた男と、怯え泣く子どもを眺めていた。

「死んだ一頭は仕方ない――お前たちの獲物だ。あとは許してやってくれ」

真摯な目で、彼はそう続けた。

優しくてきれいな目。

ほんの刹那、その目をそう見ても

当時のフェンリルには何の意味もないものだった。





髭がなかったころのトールと、10歳前後のフェンリル。

雪がふぶく中、それぞれ狼を従え、羊と少女の前に膝をついている二人の間には、喉を喰い切られ血を流した羊が横たわっていた。

ああ。

確かに俺は、トールと逢っていたんだ。

何故今まで思い出せなかったんだろう。




すぐ目の前に、ほぼ全壊した鎧の残骸をまといつかせたままの少女が倒れていた。

耳の底に残っていた、彼女の叫んだ言葉が蘇ってくる。

「助けて、トール!」

必死の声だった。

虫がいいと思った。

こいつはトールが一番望まないことをしようとしていたのに。



「……ん?」

スルーズを見下ろしていたフェンリルはつぶやく。

何か、奇妙な気配を彼女から感じてその前に跪く。

「なんだ、これは」

その体にあり得ないものを見て。

フェンリルは目を見張った。 




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